真の福は'福音を見ることができる目と聞くことができる耳'

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福音に対する二つの反応(3)

福音が強力で単純で明確に叫べば聞き取れない人がいない。ところが、不思議なことに同じ祝福の福音を聞いても、心の状態によって反応が分かれてしまう。“十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の 力です。(コリント第一1:18) 十字架の言葉が永遠、天国、尊さ、希望… このようなことなしで悪を抱いて生きる滅亡する者たちには愚かで無知な話に聞こえるけど、救われる人、すなわち心霊が貧しい者には十字架の言葉こそ彼らの人生を変化させる神様の能力なのだ。

”ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知惠を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された 者には、神の力、神の知惠であるキリストを宣べ伝えているのです。“(コリント第一1:22~24) ユダヤ人は自分たちが理解できるしるしを求め、異邦人であるギリシャ人は人間のレベルで理解できる知恵を探すが、ひたすら召された者にはユダヤ人であれギリシャ人であれキリストこそ神の能力であり神の知恵だ。

このように同じ福音を聞かせて手に取るように持ってきても心の状態がどうなのかによって反応が天と地ほど異なる。心で聞く耳が重要なのだ。"しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。"(マタイ13:16)霊的な目と耳が開かれ心霊で神の声を聞いて見ることができる福が真の福だ。人間になった神様、永遠で唯一の主であるイエス·キリストをわかるということは、人間的な知識や知恵では分からず、霊的な目と耳が開かなければならない。十字架の言葉を悟らずに信じられなければ、私たちは罪の中で生まれ、罪の中で生きて永遠に滅びることになる。だから十字架の言葉の秘密を見ることができる目、それを聞くことができる耳が'生きるか死ぬか'の永遠の運命を分ける途方もない福なのだ。2000年前、ダビデの町にナザレイエスとして来られたイエス·キリスト。その方をキリストであり生きている神様の息子として知ることができる目を持つ者が救いに至り、神様の国の民になり、神様の永遠の福を受ける。この福音が私たちの生命になるにはまさに私たちの霊の目と耳が開かれてこそ可能であるのだ。

心霊が貧しい者に福があるという言葉は歴史の中にそのまま現れた。 神様が人になってベツレヘムのナザレにある馬小屋にいらっしゃった時、赤ん坊で来られた。その時、東方の博士たちが訪ねてきて礼物を差し上げたが、彼らはイスラエル人ではなかった。正確ではないが、今のペルシアやイランの向こうから遠い道を来た。推察してみると、聖殿もあり、祭司もあり、イエス様と関連した予言が並んでいる旧約聖書を毎日抱いて生きてきたユダヤ人こそ、一番先にイエス様をわかるべきだったのではないか。ところが、彼らはついに人間の体を着て来られたイエス様に気づかなかった。むしろその昔イスラエル人たちが捕虜で連れて行かれたが時に伝えられた聖書の一部の中で'人類を救うメシアがユダヤの地に王として来られる時、本来あった星でない星で東方に浮び上がるだろう'というかすかな影のような予言だけを持つ東方人たちがその星を発見した。そして、その遠い道を巡礼者のように訪ねてきて、赤ちゃんイエス様に黄金と没薬と乳香を礼物として差し上げて王に差し上げる敬拝をして帰った。 (2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞]

キム·ヨン イ宣教師
(巡回宣教師。LOGミッション代表)

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