‟聖なる招きをもって召された者は死ねない”

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davidエルサレム、即ち、シオンで会おう!(1)

‘エルサレム’即ち‘シオン’は、神様の救われた民を意味する。そのシオンに向かった神様の渇望と夢がある。神様はその夢をダビデを通して広げられる。‟それから、また、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。 『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。 彼はわたしの思うところをすべて行う。』(使徒行伝 13:22)

王の位につけられたサウルは、神様に向かった純粋な心が変質されて、ついに神様に背いて悲惨な最後を向かうことになる。神様は欲に狂っていたサウルを退けて、‛神様の心に適う者’を探される。旧約の時代、ダビデの時代に、神様の恵みによって、神様の国の属性が一番栄光で、聖に現れた。信仰の父がアブラハムであるなら、神様の国をこの地に具現して見せてくれた人はダビデでだった。聖書はメシヤを指して‘ダビデの子孫イエス’と表現したりした。

荒野のダビデ

家の中でもあまり愛されなかったダビデ。彼は人が住めない荒いベツレヘムの荒野で寂しく育てられた。まるで、捨てられた者のように荒野に居たが、そこで彼は神様と個人的な交際を豊かにした。荒野で父の羊を飼いながら獅子に捕らわれた羊を取り戻すために、彼は獅子の顎を攻撃しながら獅子をやっつけた。荒野は彼にとって決してロマンな場所ではなかった。死亡が潜んでいる所であり、恐ろしい所だった。神様に召されたダビデは、決して平凡に生きる事ができなかった。

神様に呼ばれたら私たちの人生は変化する。‟あなたがたの内に働いて、御心のままに 望ませ、行わせておられるのは神であるからです。” (ピリピ人への手紙2:13) 自分の欲求で一杯になっている肉体的な人生に中に神様の御霊が来られて、招きが実際的になったら、私たちの願いは聖なる願いに変わってくるのである。人は自分の心の願いによって行動する。‘自分’がほしいことをする時には疲れたりしない。‛そのことがつらい’より‘やりたい’のほうがもっと重要なことである。

自分の満足と有益、肉の欲、目の欲、生活のおごりのために走った者に御霊が来られたら、良いものを見上げ、義に飢え、渇く。良い物が全くない‛私’を見て悲しむ。霊的な栄光に参加したい熱望が生じる。ダビデがそうだった。死亡の怖さを飲み込めるくらいの熱望が生じた。

だからゴリアトの前に出で行くことが出来たのである。一般の人からは決して出て来られない、神様が下さった願いだった。神様の名前に対する熱望!価値に押されて行く時には抵抗がない。しかし、この世を勝てるくらいの能力の有り無しとは関係なく、大きい流れを逆らって方向を変える時には跳ね返る。

王の位につけられという事は、民を仕えるというしもべとしての招きである。これは神様の国の原理である。王の位にはサウルが座っていたが、まことに王らしいのはダビデだったので民心が揺動する。このためにダビデはサウルに追われることになった。王の位につけられたが、ダビデは十数年間、毎日、死の闇の谷を行った。いつも死の前に露出されていたが、主が保護して下さった。

聖なる招きをもって召された者は目的が終わるまで死ねない。ダビデは死の闇の谷で神様の生々しい救いを経験して、荒野で神様の保護と導きと癒し、回復を充分に経験した。エジプトで奴隷だったイスラエルの民を荒野に導いて、ただ信仰だけが残るように訓練したように、主は彼に同一に働かされて、ついに詩編23編の告白をお受けになられた。(2015.4) <続く> [GNPNEWS]

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