私たちは皆キリストの従順に負い目のある者

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作者:エンドリュ・モレイ | 139ページ | 2002

すべてのクリスチャンたちは神様の前に従順であるか、不従順であるかの問題で主の前に立つ。結論から言うと、私たちが選択できることは死ぬまで従順できる恵みを求まることである。著者は従順と不従順の岐路に立っている私たちをエデンの園へ導く。

創世記に始めての人、アダムに神様が求めたのは一つだけだった。‘園の中央にある木の実は食べてはいけない’アダムがエデンの園で永遠に生きられる唯一の方法はその木の実を食べないことだった。神様の命令を従うことであった。しかしこの従順は人間の運命を左右する重要なものだった。

神様は彼の子供たちが一日中主の御言葉に従うことを求めているのである。被造物である人間は神様に従わないといけないのである。

ヨハネの黙示録12章と14章には神様の掟を守ってイエスの証を持つものたちが出てくる。また22章にもその外套を洗う者たち、つまりその掟を行う者たちが出ている。どのように不従順だった私たちが従順する命へと変わったのか。はじめと最後の間に一つの事件が起こる。つまりイエス・キリストの十字架の事件である。

御言葉に従順するまで待っておられる神様

‘ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。’(ローマ人への手紙5:19)

‘彼は従順を学び・・・彼に従順であるすべての人に対して永遠の救いの源となり、’(ヘブリ人への手紙5:8,9)

エデンの園で起こった不従順はすべての命を死へと追い込めたが、イエス様の従順によって完全なる回復と義が完成した。

罪がこの世に入ってきた。そして罪は不従順を通してこの世を破滅させた。アダムの不従順の本性を受け継いだ私たちは‘不従順の息子たち’として生まれた。神様はかならず成し遂げないといけなかった一つのことは、不従順ののろいを除けることであった。アダムの不従順によって私たちが罪人になったように、キリストの従順によって私たちは義人になった。

それで私たちはキリストの従順には負い目のある者なのだ。神様と従順は分離できないし、神様を迎えたということはキリストの従順まで受けいれることである。従順のキリストは私たちを救ってくださって、私たちを従わせてくださる。

神様の子供たちよ、神様が私たちに望んでおられるのは単純で、普遍的で、変わらない従順である。

本を読んで、従順はキリストが成し遂げたように死まで導かれないといけないことに心が大きく鳴った。自分に対して完全に死なないといけないことを知っていることと、このような死を望むこと、自分を完全に下ろして導きに委ねることは私たちが学ばないといけない従順の一番大きな校訓である。従順は救いの本質であり、愛によることであり、愛によって感動されて、愛だけで可能である。

神様の恵みをもっと求める。私たちが御言葉をどんなに文字的に研究したとしても、救いの力と能力は私たちにはないのである。光と能力である聖霊様が神様の命令に従順できる力を供給してくださる。それはさびしい部屋でのお祈りによってなされるのである。

私に昇天の祈祷時間は神様の臨在を感じ、神様との静かな交わりの中へと導く時間であり、そこには従順と不従順の岐路は存在しないのである。

[GNPNEWS]

ウ・ミヨン宣教師

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