私たちは堕落してから謙遜を喪失した。

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作家:エンヅリュ・モレイ / 2003

エンヅリュ・モレイの<謙遜>

この本は謙遜に対しての私たちの固定観念を一気にばらばらに崩すと思う。謙遜がこんなものかと嘆声を発声させる本。エンヅリュ・モレイの<謙遜>である。

著者は私たちが高慢になったり、謙遜を失ったりすること。それが罪悪の根源になると言っている。高慢は道徳的欠陥ではなく、謙遜は人格的徳性だけを意味しているのではない。

神様はこの世を創造する時、私たちを主の全能で充満な愛に入れる目的を持っていた。神様の被造物である私たちは、絶対的に依存的で謙遜になるしかない関係だった。

しかし私たちはこの謙遜を喪失した。これは堕落した天使たちが自己愛におぼれて高慢が生じた。天国から追い出された蛇、サタンは私たちの命の中に高慢という名の地獄の毒を入れて、神様だけに依存していた謙遜を破壊した。それで人間は自ら高ぶって、心の王座に自我を座らせた。

神様だけを依存していた謙遜が破壊

神様はサタンのことをほっておかなかった。‘おのれを低くして、死に至るまでしかも十字架の死にいたるまで・・(ピリピ人への手紙2:8)’十字架の事件を通して人間の命のなかに入れられた罪の根源である高慢を終わらせた。高慢そのままだった自我の消滅がなくては、本当の謙遜と主の清さが私たちに臨めないのである。私たちが謙遜になることは、キリストの謙遜が私たちの中に留まるからである。またキリストの謙遜による魂はキリストの中に自分を死んだ者として、キリストに学んで行うようになる。‘主のみ前にへりくだれ。そうすれば主はあなたがたを高くしてくださるであろう(ヤコブの手紙4:10)’

キリストの臨在と能力は謙遜な魂の所有者たちにだけ臨む。私の自我がなくなるときにだけ、主が私を完全に所有できるのである。

“いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。(イザヤ書57:15)”

神様の前での謙遜は私たちの栄光

キリストの謙遜は人たちに自分に対して何を言っても関係しないで、主が喜ぶことを自分の中で行うように主に従順することである。したがって被造物は生きておられる主の器であり、通路にすぎない。主の前に何もならないことが被造物の栄光である。何も持たない人たちに天国が臨み、また自分のために何も求めない人たちが本当の地を受け継ぐのである。

聖書で見られるイエス様の謙遜は、地では人間に完全なる従順の場をとって自分に向けられるすべての尊厳と栄光を主にささげる姿である。自分の能力、栄光、働き全体に対して‘私は何もなくて、私は働く主に自分をささげた。私は何もなくて、父である主が私のすべてである’と言った。完全な自己放棄、絶対的な従順とお父さんのみ心に対して依存して、完全な平安と喜びの人生を楽しんだ。

私は本を読んで自我を完全に終わらせた十字架の場に立たないと、またも主をおいだして高慢の中に留まる悲惨な人生であることを思い出した。

神様!私たちに、主の臨在で私たちが何もならないことが一番の業績であり、一番の祝福であることを信じるようにしてください!私をもっと空っぽにして、もっと低くしてください!卑しくて注目されなくても、誰もわかってくれなくても、キリストだけで満たされる主の清い器にならせてください!マラナタ!

[GNPNEWS]

バク・ヒヨン宣教師

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