唯一の主の名を頼る時、まさに今である

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世間と真理の戦争をしているキリストの体なる教会は、お金、勢力、権力、組織、知識などを武器としない。

世間の手に負えない、理解する事すら出来ない、神様の名前で進んでいく。生命である福音で敵と立ち向かって戦うのである。福音に運命を懸けた人は、自分の助けを神様にだけ置いて、主が自ら争う戦争、信仰の戦争に自分を捧げる者である。

一致、連合、統合を優先していると言いながらキリストの名前を放棄し、組織や勢力を前面に出して人類の回復を叫ぶのは教会の本質ではない。

キリスト教という名前は名目だけであって、神様より広い雅量で救いについて論じてはいけない。連合が目的ではない。何のための連合であるのかが重要である。バベル塔も一つになって連合して造り上げた。ただ主イエスキリストが重心にならなければならない。

中世宗教改革者たちが命をかけて叫んだ叫びが、今、私たちにもそのまま響いてきている。

私たちが戻るべきの目印、光にした聖書、その真理に帰ろうと言うことである。‘再び福音の前に、ただ聖書で!’改める時がまさに今である。

誰かか“なぜ、この時にこの叫びですか?”と質問した。ふと、このようなことに思い付いた。紀元前700年ごろつぶれそうもなかったイザヤの時、当時イスラエルは経済の状況や政治的な状況上、比較的に安定期を享受していた。だが、イザヤを通じて聞かれた神様のメッセージはこのようであった。

 “天よ聞け,地よ耳を傾けよ,主が語られる.わたしは子らを育てて大きくした.しかし, 彼らはわたしに背いた.牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている. しかし, イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない.(イザヤ書 1:2-3)

人の目にもっともらしい外観を備えている時、教会の規模もよろしい、経済的にも安定と平和を享受している時、その時に教会はさらに目を覚ます必要がある。今、教会の中に居る聖徒たちの姿はどうなのか?リラックスしながら平和にしているのだが、信心の力を経験しているのか?流行を追いながら生き残るために世間に居候しているのではないのか?

堂々と信仰の勝利を叫んで、聖を叫ぶべきの教会が、世俗の雑多なことに興味を注いでいるのなら、今、私たちは明らかに克明な危機を迎えているのである。この危機を前にして悲鳴でも上げなければならない気がした。神様が共におられないイスラエルが何の意味があるのか?キリストによらない教会が何を立たせられるのか?

こんなに険しい時代に我が子を残して行くなんて惨憺たる気がする。この歴史の運命の責任を負ったまま黙っては居られないだろう。これ以上時間を延ばす訳にはいかない。生きているとは言え、実は死人と同じような生命のない場所から立ち上がるのだ。

いよいよ主が事をなさる時になった。私たちの羽が折れて、足が骨折された今、主が事をなされるのだ。

“御覽ください,僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは,神に,わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます.(詩篇 123:2)”

とても緊迫した瞬間、主人の手に目を注ぐ僕のように主を切に望みよう。主を待とう。惑いと混沌の時代、数え切れない言葉が私たちを揺るがしている時、すべてを知る必要はない。羊はただ自分の牧者の声だけを聞けば良いのだ。もっと真理を強く捕まえろ。

 “主は驚くべき御業を記念するよう定められた. 主は惠み深、憐れみに富み、主を畏れる人に糧を與え、契約をとこしえに御心に留め。 (詩篇 111:4-5)”

恵みに満ち、憐れみに富み、良い我らのお父さん。飢えている子供を残酷に置き去りにする能力が主にはない。私の魂の深いうめきを聞いて、私の涙を瓶に貯えて数える神様なのだ。

真の改革は継続されている改革だと言う。私たちの教会を回復させて、能力を持つように変化させる雄一な通路!ただ、全部をかけて彼の名に頼って主に向かうべきの時、まさに今であるのだ。

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神様の国の復興と宣教完成