天国を渇望するほど心霊が貧しいのか。

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福音に対する二つの反応(2)

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隱れたことを見ておられる父が,あなたに報いてくださる(マ6:4)がある。これはユダヤ人の外見的な信仰を真の義人の信仰で教訓し教える内容だ。また、’何も心配するな’と言いながら、’空中に飛ぶ鳥を見ろ。それらは心配しなくても神様が広げてくれた青空で神様が食べさせるものを食べる。野原のユリは一日に咲いては散るが、栄光を極めたソロモンより神様が美しく着せているのに、ましてや君たちだろうか。どうして心配して何を飲むのだろうか?食べようか?着ようか?と心配しているのか?’とおっしゃる(マ6:25~31)。イエス様は何よりまず神の国と神の義を求めれば、あなたたちを創られた方が食べ物を与えないで、体を創られた方が着るものをくださるのではないかという山上報勲を与えた。

天国の例えとして知られているマタイ福音13章は、7つの比喩で神の国の真理を説明された。肉体を着て有限な時空間の制限の中で暮らす私たちには次元が違う’天国’に対する話は想像も、見当もつかないので主は比喩を使ったのだ。ところが、この比喩は聞く人の立場によって結果が天と地ほどに違う。準備ができている人の耳にはよく入り、手に取るように気付くけど、全く聞き取れない人もいる。

“この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で 理解せず、悔い改めない。わたしは 彼らをいやさない。(マ13:15)

自分で賢いと思うが、かたくなな心だから聞き取れないのだ。これは知能指数(IQ)の問題ではない。神様の国に対する霊的な真理は心で見ずに聞かなければ分からないので、従順しようとする心でなければ聞き取れない。いくらすごい能力で神学を勉強し、熱心に聖書を読むとしても、違う心で神の国の比喩に接すると心に染み込まないのでその国を享受することはできない。

“もし、わたしたちが眞理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば, 罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き盡くす激しい火とを,恐れつつ待つことだけです。モ―セの律法を破る者は、二,三人の證言に基づいて、情け容赦なく死刑に處せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。(ヘブライ10:26〜29)

衝撃と感激で受けた福音を存在の中の最も深いところ、心の中心に受けずに他の目的で受けて適当に感動し、自分に実際にならないまま暮らせば、いつかはこの福音を武器に使うことになる。福音で他人を停めて判断し批判することになるのだ。しかし、自分がその福音の中に入らないため、彼は罪を犯す場に行くしかなくて恐ろしい刑罰を受けることになる。福音を心から受けずに従順しない者が他の動機でその秘密だけを知ることがどれほど危険で恐ろしいことかを警告して下さる御言葉だ。

このように天国の比喩を聞く時に私たちの心の中心が現れるようになっている。天国を渇望して貧しい心霊として準備されている人は”心の貧しい人は幸いである。”(マ5:3)を比喩で話せればただ’アーメン’と受け取り喜びで反応するようになっている。しかし、自己中心的な人々はそうはできない。(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞]

キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表)

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