十字架を通過して、復活の生命を経験したら。。。

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しかし,この私は,あなたの力を歌います.まことに,朝明けには,あなたの惠みを喜び歌います.それは, 私の苦しみの日に,あなたは 私のとりで,また,私の 逃げ場であられたからです.私の力,あなたに、私はほめ歌を歌います.神は 私のとりで,私の惠みの神であられます.(詩篇 59:16-17)

平凡な人と非凡な人との差はそんなに大きくない。定められた死の前で膝を折るしかない、人生は有限である為なのだ。だが、ある人生に神が介入したとしたら話はまったく別になる。聖書に神の介入を味わい、その名を歌った一人の人、ダビデが登場する。

ダビデは地政学的観点から見たら、地中海沿岸に位置するほんの小さい国イスラエルで生まれた。エッサイと言う、しがない農夫の八番目の息子で、家の中でもそんなに注目を受けなかった末っ子だった。荒野に出て何匹かの羊を飼ってた小さい牧童に過ぎなかった。ところがある日そんな彼に神の介入が現れ始めた。

神はイスラエルの初代王サウルが、神の御心にそって歩まなかったので、彼の王位を廃する事と決めた。主の栄光をあらわす大事なお招きを受けたイスラエルに相応しい王を立たせようと、神の御心に適う者を探した。神は、人の予測がつかない、王とは全然関係のない田舎のある少年を選んだ。

ちっぽけな希望も未来も見えない平凡極まりないダビデの心を隅々まで探り始めた。そして告げられた。“彼はわたしの心に適う者だ。”居なくなっても誰一人気にしない荒野の少年を神が見つけ出して、その心を深く知り尽くした。天と地の創造主である神がつまらない人間の心の奥を探るとは、どれほど驚くことだろう。主は私たちの心の奥を知っている。

少年ダビデはサムエルと言う預言者に会って、訳もわからず油注がれた後、人生の大変革を迎えた。その国の中の誰も、家族でさえ知らなかったが、彼に油注いだ預言者サムエル、当事者であるダビデには明らかな事実だった、神がダビデを選ばせたことだ。

その後、ベツレヘム牧童ダビデの人生にとてつもない変化が起き始めた。人生の主権が変更されたのだ。自分の決定によって成り立ってた日常に、神の介入が始まったら、人生は自分の物じゃなくて神の物になる。ダビデが祈るたびに叫んで、歌った‘わたしの神よ’と言う言葉の意味はまさにこれである。

客観的な真理で、神学的な意味で聞いたら、この言葉はそんなに大きな意味を持たない。ただし、ある機会を通して‘私の神’に対する真の意味を悟ったら話は逆転する。耳で聞いた神が私の神になる瞬間、主との道連れが始まることになる。人の人生に起きる最も顕著な変化を経験する瞬間だと言えるだろう。

キリスト教の家庭で生まれて育った人がおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんの神の話を聞いたとする。彼にとって神は近くても遠い存在であることが出来る。表向きだけ信仰人である彼には、神は呼んでも何の感動のない名前かも知らない。ところがある日、このような彼に十字架の福音が心を強打し、自分と言う存在と魂に打つかって、がちゃんと割れる瞬間を迎えたら、彼の人生にはどんな事が起こるのか?

生まれ変わったような変化と能力が人生と存在の中に起こるだろう。主が変わられたのじゃなく、自分の存在が十字架とぶつかり合ったからなのだ。そのように十字架を通過して、復活の生命を経験したら決して、絶対、これまでの生活に戻ることはできない。

罪、福音、十字架、神、イエスキリストと言った言葉が心にぶつかり、真の意味を追求する。これが、人の人生に現る神の介入である。この事はサタンには壊滅的な波長である。だからこれまでの見慣れたことに対して逆反応が生じるのは当然なのだ。神の敵が私の敵に成ったからなのだ。慣れていたすべてのことに抵抗することになる。

ダビデは、このような神の歴史を経験して、神に切々とした告白をするようになる。

“あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。”

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